『尊い』と言う文字が流行りすぎて陳腐化している

「この漫画、シチュエーション。なにこれもう無理、尊い!!」

「なんだこれ…いいねとリツイートはなんで一回しか押せないんだ!」

「やばみ!」「しんどい、つらみ…」

 

一つの絵や作品、状況に対して、喜び、悲しみ、怒り、楽しさの基本的な感情から、一種の信仰心まで見出し、作品に、作者に、シチュエーションに、崇め奉る。

だからこそ、そういった感動を言葉に表現すれば、途端にその作品に対しての感想は陳腐なものに変わり、作品自体の魅力が失うのではないか。

そんな恐怖感からか、彼らはそれを損なわないように、なおかつ作者に対する最大の賛美のように「尊い」を連呼する。

それは作者に対して何より、この作品を生み出してくれてありがとうという、作者が喜ぶし何より、作者を応援しているということに繋がる。

また非常に分かりやすい言葉であるため、自らの感情を表現しやすいという点に優れている。

 

私自身も実際に言葉にしたことはないが、感情を表現しきれないために簡単な言葉で済ますということもある。

 

ただ、それは逃げなのではないだろうか?

 

「その作品に対してスタンプを押すかの如く『尊い』と感想を表すだけ」

本当にそれでいいのだろうか?

「作者達が、そういった色とりどりの作品を生み出しているのに対し、ただ『尊い』と連呼する視聴者達は、自らの感情のオリジナリティを大多数の人々と同じものになってしまっているのではないか」と私は危惧している。

「尊い」という文化について

尊い(google検索)

1.価値が高い。大切だ。貴重だ。「―体験」
2.身分が高い。敬うべきだ。「―お方」

 

本来の意味ではそういった事に使わず、価値のある人物や体験に対して使う言葉だ。

しかし、Twitterなどを始めとして若者を中心に別の使い方がされている。

『二次元(デジタルコンテンツを中心とした絵や作品)を中心に、キャラクターや作品、シチュエーションに対してあまりにも好ましすぎる、好みの中心を捉え、非常に興奮したり感情に動かされたこと』に対して使われる。

また現在はこれのみではなく

芸能界に所属するイケメン俳優やアイドルグループの1メンバーに対して使われている。

「◯◯様尊い…」「このシチュエーション…もう無理。尊い!」といった例がある。

Twitterにおいては

作品がTwitterに投下される。

それをフォロワーが評価し、それが彼らの琴線に触れたのなら

「尊い」という感想や「尊いを表現する画像(救急車に運ばれたり、しゅきぃぃぃなど)」と共にいいねやリツイートが押される。

それがフォロワーからリツイートにリツイートを重ねて色んなオタクたちに知られていき、「尊い」という感想が増えていく。

現在のTwitterではそういった「尊い」作品を作ることが流行になっており、またそれに伴って視聴者が自らの「尊い」を表現する作品や画像も増えていっており、いわゆる

インターネット・ミームと化したコンテンツとなっている。

「尊い」という言葉が持つ効力と副作用

オタク界隈で使われる「尊い」という言葉は非常に便利である。

上述したが、喜怒哀楽、信仰心、その他何らかの言い表せない感情を含めて、「尊い」

その一言で完結する。

 

それは「尊い」という言葉が劇薬、毒薬であることを意味している。

言うなれば「尊い」は、感情表現におけるステロイド剤だ。

 

目に見えて薬効があると同時に、副作用として私達に襲いかかってくる。

私が考えるのは、自らが持つオリジナルの感情を「尊い」という一言で片付け、なおかつ、登場する誰もが「尊い」と言っている中に自らの「尊い」という一滴を投げるのである。

例えるなら、水が流れる透明な川に、同じく透明な水を投げ入れるのと同じだ。

 

それでは自らの体験した感情表現、感想という自己表現が成されていないと同じではないだろうか?

 

オタクはサブカルチャーを愛している。

故に何に対してもオンリーワンであることを好む。

なのに、一般大衆と同じように同じ感想でしか表現せず、同じであることを喜ぶような

そんな「尊い」という文化は、果たして本当に正しいのだろうか?

何を目指すかによる

こち亀(ジャンプコミックス166巻5話「がんばれ麗子の巻」)では、深い造詣を持つオタクたちは作品の良さを「アオ…いいよね」「いい…」というのが本来の使い方として述べている。

これは間違いではない。今回問題としている「尊い」という文化でも同じことが言える。

 

ただし違う部分を指摘すると、こち亀は複数人…クローズドであるのに対して、尊いはいささかオープン(SNS)で有ることが多く、なおかつ作者にすら感想が届くという性質を持っている。

厄介なのは作者にもこの表現が届いてしまうということだ。

 

「尊い」が持つ言葉の意味は、喜怒哀楽を基本として様々な性質を持つ。

故に作者は何を持って視聴者が喜んでいるのか分かりづらいのだ。

「尊い」は創作活動を続ける励みにはなるが、次のネタには使いづらいという点がある。

 

わざわざ視聴者がヒントのような感想を与えたら作者の表現が崩れるのではないかと危惧するかもしれない。

例えば、アカデミー賞という映画の到達点とも呼べる祭典で、どの映画も優れているのに、その中で最優秀を選んでいく。

しかしそれで最優秀を選ばれたとしてもやはり評価がされて、さらになおかつそれを受けた監督はそれを励みにまた次回作を製作する。

将棋の世界でも加藤一二三九段という途方もない上級の段を取っていたとしても、棋譜は評価されていく。

 

要するに作品として世に出されたら評価をしていく、それが世の常であると私は感じる。

 

怖がる必要はない。ただ一言

「尊い。◯◯が◯◯良かったんだ!」と一言尊いの後に添えるだけ。

それだけでも自らの表現にオリジナリティが追加されるのである。

作者を、自らを大事にすること

日本独特のものである、出る杭は打たれる、優劣を付けるな、平等であれ

の精神は大切にする部分は大切にするべきだと思う。

 

しかし、自ら、作者の感情表現、意見までもが平等になってしまったら

ツマラナイ世界の幕開けとなる。

これからもサブカル的なジャンルを繁栄させて行くために、まずは自らの感情表現をアウトプットさせる時は、固定化させずにいろいろ考えてみることが大事だと私は考える

 

以上。

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